housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

ほうせんかの家に虎が増えたゾ🐯

ほうせんかの家に大虎🐯が増えました。

全部で何匹になるのでしょう?

ほうせんかの花も、一年中見れる様になりました。

ここに絵を書き添えるためにわざわざ、通ってくれる若者がいる。

すてきな 場所になりました。

近所の子どもが描いてくれたチョウチョウも可愛い💕

追悼の想いがまさに大きく花開いたようです!

 

土手外の暗い路地が様変わりして、通る方々の感動の声もまた賑やかなこの頃です。

 

 

2月になりました。

2月の予定をお知らせします。

2月4日(日)14時から、プンムル練習。荒川河川敷。

2月27日(火)15時から17時 ネパール式ランタンつくり

        缶やビンを使ったランタンは好評で、ほうせんかの庭などにも飾って            いますが、光は入れられません。お日様に当たるのもきれいです。

少し大きめのネパールランタンは、和紙を使う予定です。

 

2月からのほうせんかの家開館 予定

 毎週土曜日の 案内役をミンジャが行ってきましたが、4人の理事が交代で案内することになりました。それぞれに、違った学びがあることでしょう。

3日  落合

10日 矢野

17日 ミンジャ

24日 西崎 

 

新たに毎週火曜日の午後に、開館します。

 時々、変更があるやもしれないので、この場で確認してくださいね。

 案内役 ミンジャです。

 

時間が空きましたら、追悼碑や🐯家屋の見学や、学びに来てください。

 

1月の活動報告

24・25日  東日本地区YMCA スタッフ研修。

       30名にフィールドワークと講演・ミンジャ

30日   えり子のランタンつくり 4名参加

 

会報 新年号です

新年おめでとうございます

 

 昨年は、関東大震災100年のため、あわただしい毎日でした。追悼式は600人もの人が参加して盛り上がりました。「百年(ペンニョン)」の若者たちが、証言朗読などをやりました。また彼らは、「ほうせんかの家」の壁をペンキ塗し、虎などの絵を描きました。屋根のペンキ塗りをしてくれたキム・ヨンミョンさんは、錆を落とし汚れを落としてオレンジ色に塗りなおしました。

また、追悼碑前の土手下の空き地もみんなできれいに整備しました。

 今年も、毎週土曜日の午後一時から五時の間、「ほうせんかの家」は開いています。

そばに来られた時には気楽にお寄りください。

 朝鮮人虐殺事件については、殺された方々の名前など未だにわからないあことがたくさんあります。私たちは少しでも事実を明らかにすると共に、フィールドワークなどで、今わかっていることを伝えていきます。一緒にやりましょう。

                            落合 博男

2023年活動報告

会報2ページから5ページまでは、2023年の活動報告です。100年とあって、130件もの活躍の様子が、列挙されました。大学から、労働組合、私的集まり、個人、韓国から~様々に訪問を受けました。取材も日本各地の新聞社・雑誌社、韓国・フランス・・・。講演に出向いたところも様々ですが、大阪・水俣が遠かったです。皆様のおかげで、たくさんの方々に当会の思いや事件の情報をお届け出来ました。

 仔細は割愛します。

 

ペンニョンの活躍

12月10日に新宿の高麗博物館でペンニョンが行ったイベント「NOジェノサイドのッペンをつくって、かたろう!」について報告します! (報告 中井さつき)

▼イベントの様子

当日は17名の一般参加者と10名のペンニョンメンバーが参加しました。一般参加者の方はほとんどが30代以下で若い人が多かったです。班に分かれて、レクチャーとワッペン作りの2部構成でイベントを行いました。前半のレクチャータイムでは、私を含めた3人のメンバーが代表して作成した年表を元に1800年代~現在に至るまでの日本の植民地支配の歴史や戦後の在日朝鮮人が置かれてきた状況を振り返りました。

その後、3人で特に印象に残っている出来事について話しました。私は朝鮮戦争について感じた「日本の歴史の授業では、特需景気として朝鮮戦争で軍需需要が増えて経済成長して復興が進んだという文脈で習うが、韓国の歴史博物館に行って日本の加害責任について改めて考えたときに、とても一方的なものの見方であること。それまで何も違和感を持たなかったこと」を話しました。それから参加者のみなさんにレクチャーの内容を踏まえて「自分と植民地支配」について感じることを班の中で話してもらいました。

 

その後はワッペン作りです。材料はメンバーが家にあった布やフエルトや刺繡糸などを持ち寄りました。好きな形に布を切って、ボンドや糸でフェルトや布をつけていきます。

「NO WAR」や「NO 虐殺」など思い思いのメッセージを表現しました。ハングルで表現している人もいました。短い時間でしたが、思いが込められた素敵なワッペンが出来ました。

準備はとても大変でしたが、たくさんの方が来てくれたことで同じ問題意識を持つ人がこんなにいるんだ!と思えました。作業で手を動かしなら、来た人と話ができて嬉しかったです。またこのイベントがきっかけでペンニョンの活動に興味を持って下さる方もいました!

▼「NOジェノサイドのワッペンをつくって、かたろう!」に決まるまで

10月、イベントに向けて10名のペンニョンメンバーが集まりました。まずどういう企画にするか話し合うために、最初のミーティングをオンラインで行いました。何かを作りながら参加者と交流したい、という方向性は出たものの具体的なところまでは決まりませんでした。 一週間後のミーティングで企画が決まりました。ガザで虐殺が起こっている中で改めて私たちも植民地支配について考える必要があるのではないか、という意見が出て「NOジェノサイドのワッペンをつくって、かたろう!」になりました。植民地支配や植民地主義というと抽象的で歴史の文脈で語れることが多く、なかなか自分たちの生活に結び付かず、人と話す機会も少ないので来た人たちと一緒に考えたいという思いからでした。またワッペン作り以外の候補としては、ビーズアクセサリー作り、消しゴムはんこ作り、高麗博物館の収蔵品整理などがありました。誰でも簡単に作れるもの、気軽に身につけられるものという観点でワッペン作りに決まりました。

私たちが一方的に話して何かを教えるのではなく、双方向に交流してみんなで一緒に考えるのはとてもペンニョンらしいと思います。また家にあった材料を持ち寄って物を作るのも、種まきやペンキ塗りなど生活に近い活動をしているほうせんかの家があるからこそできた企画だと思います。

ペンニョン メンバーの自己紹介

             お二人の方から紹介がありました。ここで花を伏せます。

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺については、昔、歴史の授業で習った記憶がある。しかしこの事件について深く考えることはなかった。そんな私が、100周年というこの歴史的な年に東京で留学を始めることになった。2023年は1年間様々な現場に足を運んだ。その過程で自然とほうせんかの存在を知り、荒川河川敷のフィールドワークにも何度か参加することができた。この事件と向き合うことは、「韓国で生まれ育った韓国人」という自分のマジョリティ性と向き合うことでもあった。9月2日の追悼式では、「百年」の証言朗読メンバーとして関わらせていただいた。偶然にも私が担当するようになったのは曹仁承さんの証言だった。日本に来てから、在日コリアンの方々にとってこの事件が持つ意味を知り、韓国でずっと暮してきた自分が勝手にこの事件を自分と繋げてしまうのは失礼ではないかと思った。しかし曹仁承さんの証言を読んでいく中で、関東大震災の当時、日本にいた朝鮮人の多くは、今の自分のようにまだ日本に来て間もない頃にこのような経験をしてしまったんだなと気づいた。そう思うと、当時の人々の状況や感情がより鮮明に想像できるようになった。あっという間に100年は終わってしまったが、101年目の今年は去年の出会いと経験をもとに自分なりの方法で関東大震災朝鮮人虐殺について伝えていきたいと思っている。韓国社会でもまだまだ知られていないことが多く、去年日本で学ばせていただいたことを韓国にいる人々にも広めていきたい。

 

 

とれたてクラブと申します。

普段はクィアフェミニズムについての漫画を描いており、2023年のミニ追悼碑づくりのワークショップをきっかけに百年を知りました。私は実家の家族が右翼だったこと、kpopが好きだったことから、家族の差別発言や、アイドルの兵役、日本語で歌を歌わせることなどに、恥ずかしさや悲しさを抱えていました。フェミニズムを通じてあらゆるルーツの友人が増え、植民地主義に対して行動したいと思うようになりました。2023年の10/7以降パレスチナへの占領を知り、9月2日に虐殺の証言朗読で「繰り返してはいけない暴力だ」と思っていた光景をSNSでリアルタイムで見て、自分が既に忘却により暴力を支えている構造の一員であることを自覚しました。百年での活動を通じ、微力ながら忘却へ抵抗できればと思っています。

 

今年も明治学院大学横浜キャンパスで話しました。西崎雅夫

学生からの感想は長いので、別途紹介します。

 

編集雑感  ミンジャ

 

  何とも、生涯忘れられない年明けになりました。

能登地震、羽田飛行機衝突事故、韓国大統領候補李在明氏テロ事件、そして、徐京植氏の突然の死・・・皆さんにとってもきっといろんなことがあったのでしょうか。

人は、悲しみや・怒り等を乗り越えながら生きるものなのだとしたり顔で過ごす日々です。 

 昨年末、荒川区でのイベントが「遠い道を歩き続ける」というタイトルでした。聖書からの言葉なのでしょうか? 101年目の始まりを心にとめていた矢先のこと、「私は100年という遠い道の最後を心置きなく行えたのか? 新しい100年の始まりをこれから進むのだな~心引き締めなければ!」と改めて思ったものです。この国に関東大震災の事件を認めさせるという遠い目標を歩き続けるんだな~と。この道は、歴史の正義を求める方たちとの出会いでもありました。進めば進むほど、仲間が沢山できて幸せだった。2024年の新たな出会いをもっと期待しながら歩みます。

 ということで、年始めのほうせんか企画は明るい気持ちを膨らませるためになんと、「明るく輝くランタンつくり」です。

1月30日(火)15時から

 500ml缶 や ジャム瓶などでのランタン

2月27日(火) 15時から

 ネパール式、紙で作るランタン

場所・両日ともに、ほうせんかの家。

参加費・お茶代含め500円

 講師は、当会報 164号にお婆さんの話「当時、恵比寿の自宅の町工場で働く朝鮮人の職工を家にかくまって助けた」を紹介してくれたエリコさんです。トッケビ プンムルの仲間で追悼式では、チャンゴを叩いています。

「作るだけで心がホコホコになります」

申し込み無しです。

 

  • 🦋 🦋 🦋先日の土曜日、家にほうせんかの花の絵を描いていたら、学校帰りの小学四年生二人が声かけてきたので、ちょうちょを描いてもらった。楽しそうだった。ほうせんかの花の絵、トラも増えています。

 

  • 🦋 🐅 🦋 🐯 🌺と楽しい壁に、道行く方々が喜んで見入っています。特に親子連れの会話が楽しいです。そして「あれ! これはなんだ」と、大人が碑に見入ります。                                いい場を作れたなあ~と、家に中で、(* ̄▽ ̄)フフフッ♪と聞いています。     まだ観てない方は見に来てくださいな~~~          ミンジャ

会報、呼んでくれてありがとう。

紙で読みたい方は申し込んでくださいね。

 

     

明けまして おめでとうございます

2024年の幕開けです。

9、1の事件を国は否定したままですし、たくさんの課題を抱えたままで、「めでたい」と言っていいのかという思いを抱きます。

 課題を一つづつ、解決していく覚悟を持って、この国が人を大切にして、より豊かになる事を願っての新年の挨拶とします。

 どなたにも、福が沢山集まりますように!

 ほうせんかは、今年も毎週土曜日の午後を空けています。お立ち寄りください。

 

 

2023追悼式、始まりの歌「もし川が話せたら」を歌う朴 保 さん

もし川が話せたら きっとこう言うさ

幾年の思い 岩をくだいて 道を開いてく

石は転がり 土と流れて 海へとたどり着く

すべてのものよ 海へとたどりつけ

すべてのたましい 海へとたどりつけ

 

2023年 100年目の追悼式の始まりは、パクポの歌から

荒川のかわへ 河川敷へ 式会場へ 土手を超えて町中へ

参加者へ 思いを持つものへ ~~~

響き渡った

 

 

 

会報、42回追悼式報告を案内します。

 以下、文章のみにて、写真は別個に掲載します。

 

韓国・朝鮮人犠牲者追悼式 報告

 

                            

 

 9月2日、気温は35度の予報でした。荒川河川敷での追悼式は、今年42回目となりました。関東大震災から100年でもあり、ほうせんか100周年追悼式実行委員会「百年」が進行などをつとめました。

 始まりの歌は、朴保の「もし川が話せたら」でした。柴田エミ・Swing MASA、そして河 栄守の

チャンセナプが、河川敷に、参加者に響きました。

 

 もし川が話せたら きっとこう言うさ

幾年の思い 岩をくだいて 道を開いてく

石は転がり 土と流れて 海へたどりつく

 すべてのものよ 海へとたどりつけ

すべてのたましい 海へとたどりつけ

 

次に「百年」のメンバー16名による、「100年前と今をつなぐ証言」の朗読が始まりました。

 

朗読の最後を、若い人たちは次のように結びました。

 

証言は生き残こった人たちの言葉です。

生き残った人も、全員が語ったわけではなく、語ったとしてもきっと全てを語れたわけではないでしょう。

ですが、殺された人たちは語ることができません。

そして私たちは、殺されたあなたの名前すら知りません。

「あなた」は誰ですか。

あなたはどんな生活をして、

何が好きで、どんな人と一緒にいますか?

あなたのことを私たちは何も知りません。

「あなた」は誰ですか

100年前のあなたをこの場所から想像したい。

生活の延長線上で、隣の人が殺されたり殺したりしたこと

もしかしたらあなたが隣にいたかもしれないということ

もしかしたら隣にいるあなたがいなかったかもしれないということ

私たちは今ここにいる

あなたも確かにこの場所にいた

名前を知らないあなたへ

「あなた」は誰ですか

来年もまたここであなたに会いたい

 

 朗読の後、韓国・中国から来日した遺族からご挨拶がありました。韓国からは、権在益さん・曺光煥さん、中国からは15名が参加され「東瀛慘案被害者遺族聯誼会」を代表して周佳佳さんです。

100年前虐殺事件を広め、隠し、今も無かったことにする日本政府と、その姿勢を変えることができていない日本社会が問われています。

 続いて今年は地元墨田区の区議会議員の方々にご招待状をお送りし、井上 ノエミ・加納 進・たかはし のりこの各区議が列席くださいました。代表して加納区議よりご挨拶をいただきました。

 最後は朴保らによる追悼の歌です。「雨に咲く花」・「ほうせんか」など、熱唱くださいました。

朴保さんは、「今年は100周年という事ですが、この会は来年も続くので次の年から忘れることのないようにしましょう」と語りました。

 司会が閉めた後、ソウル***前館長の李ジョンウンさんも参加して、プンムルが始まりました。今年はプンムル隊45名に、多数の参加者も加わって、空まで届けとチャンゴやケンガリが鳴り響きました。今年は、600部用意したパンフレットがなくなりました。在日韓国人遺族の金道任さんも元気な姿を見せてくれ、「若い人たちの朗読が素晴らしかった。内容が良かった」と感想を残してくれました。

 暑い暑い残暑の日、会場設営・音響・受付・給水・諸案内・碑の前整理・見守りなどなど、午前中から夕方遅くまで運営に携わってくださった皆様に、あらためて御礼申し上げます。例年、追悼式の日はあわただしく、混乱し、お帰りの際の挨拶もできません。なのに、「自分の追悼式」と思って駆けつけてくださる皆様が、一番の財産でしょう。ベテランの皆様、お疲れ様でした。今年もありがとうございました。少しずつ、若い方たちにシフトしてまいります。

 次の100年が始まりました。市民の手で、継承していきましょう。

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。                    

                                     

追悼する会・ほうせんか ご挨拶(今年は、当日の案内パンフで紹介)

 

「1923年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する。」

これは2009年に荒川土手下に建立した、追悼碑の碑文です。この虐殺事件は百年後の今でも、誰が誰によってどこでいつなぜ殺されたのか、ほとんどわかっていません。

戒厳令をひいた当時の日本政府は、この事件を隠蔽し、犠牲者調査結果の発表を妨害しました。日本の敗戦までは真相を知ろうとすること自体が危険でした。戦後になって、在日朝鮮人による研究から始まって、各地で調査・追悼が行われたのです。

 

私たちの会は、絹田幸恵の呼びかけによって始まりました。絹田は小学校の教材のために荒川放水路開削工事の様子を聞いてまわり、たまたま次のような話を聞いたのです。

関東大震災の時、旧四ツ木橋の下手の河原では10人くらいずつ朝鮮人をしばってならべ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。橋の下手に3ヶ所くらい大きな穴を掘って埋めた。ひどい事をしたもんです。いまでも骨が出るんじゃないかな」と。

その遺骨を掘り出して供養しようと、私たちの会は始まりました。1982年の「試掘」では遺骨を見つけられませんでしたが、その後、さらに多くの証言をお聞きすることができました。1992年にはこうした証言をまとめて『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』として報告しました。そして現場の河川敷に追悼碑を建立しようと呼びかけました。しかし河川敷での建立はかなわず、2009年に土手下の私有地に建てることとなりました。こうして街の中にあることになった追悼碑は、通りかかった人たちとの交流の場となっています。追悼碑の前には、よく花が供えられています。

 

しかし日本社会は、未だ多民族が幸せに生きていける社会にはなっていません。小池東京都知事は今年も横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典に、追悼文を出しませんでした。また朝鮮高校・幼稚園の授業料無償化除外も続いています。こうした日本社会だからこそ、これからもねばり強く調査・追悼活動を続けていきましょう。

幸い今年の追悼式を若い人たちがやってくれました。これからも仲間をふやし地域に根を張っていきましょう。

                                          2023年9月2日 

           関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会

           一般社団法人ほうせんか  

 

韓国からの遺族のお話

・権在益(クオンジェイク)さん

お会いできてうれしいです。韓国の慶尚北道の栄州市に住んでいます。私の母方の祖父・(うひさんは、ひいおじいさんと訳す)南成奎が、藤岡事件、群馬県の藤岡警察署で殺されました。当時、100年前に朝鮮総督府の管理下で作成された文章を私が探し出しました。

今日はお招きいただき、ありがとうございます。 

・曺光煥(チョガンファン)さん

慶尚南道居昌郡から来ました。父方祖父の長兄・曺権承さんが犠牲になりました。1893年の生まれなので、震災のあった1923年は30歳になった年でした。権承さんはお金を稼ぐため、日本に来ました。しかしその死亡の知らせは日本政府でも韓国政府でもなく、同じ村の後輩が、ぶるぶる震えて知らせてくれたのです。

今100年がたちました。私は本当に悔しいです。日本政府は調査もしない。韓国政府ももちろん同じです。これでいいんでしょうか。関東大震災は現在進行形です。皆さんたくさんの関心をもっともっと寄せてください。100年で終わりではありません。これからもずっと続けていかなくてはなりません。

 

中国人遺族ご挨拶   

                       

周佳佳(チョウジャージャー)

 1923年9月に、日本の関東地方で起きた地震後の集団虐殺事件は、日本軍国主義者が行った世界を驚かせる事件です。私たちは「東瀛慘案」とよびます。事件当時、750人余の中国人と6000人以上の朝鮮人が殺害されました、僑日共済会会長王希天も殺害されました。この慘案は人為的な虐殺事件、赤裸裸な虐殺です。これら日本軍国主義の凶悪犯が計画的に他国の一般国民を集団虐殺したという、その卑怯さに怒りを感じます。

 みなさんの朝鮮人被害者追悼活動に学び、私たち遺族は、被害事実を訴え、犠牲者の正義を取り戻すために、2013年から温州と日本の間でそれぞれ追悼会を行ってきました。

 2014年に日本政府に要望書を提出しました。翌年2015年と2016年に日本政府に督促状を提出し、遺族たちの強い要望と厳しい譴責の態度を表明しました。今年6月15日には、日本政府が参院法務委員会で福島瑞穂議員の質問に対し、「国際法上国家責任がある」とした調査報告書、賠償決定の資料の保管、賠償金は支払われた資料はないこと、さらに、2014年に遺族たちからの要望書を受け取ったことを認めました。私たちは遺族はようやく一歩踏み出せたと思います。一日も早く問題を解決するためにさらに実際行動に踏み出さなければなりません。

 中国遺族と韓国遺族はともに同じ虐殺の被害ではあり、互いに交流をし、理解を深めるのが大事だと思います。今後とも調査研究を進め、多くの人に知ってもらいましょう。殺害された先祖たちの正義をとりもどすため、共に頑張りましょう。

 歴史事実を隠してはいけません。改竄は更に許してはなりません! 未来へ向かい、歴史を鑑にして、教訓をしっかりと心に刻む、歴史の悲劇を再びくりかえさないように頑張りましょう。

 

                                                 東瀛慘案被害者遺族聯誼会

 

墨田区議会 加納進議員ご挨拶 

 墨田区議会議員の加納進と申します。本日は、井上ノエミ議員、たかはしのりこ議員3名で訪問させていただいております。私から一言、ご挨拶させていただきます。

 

先ほどから、始まりの歌、「百年」さんの証言朗読、ただ今の遺族の方々のアピールを、身につまされる思いで拝聴いたしました。また、長年にわたり一社ほうせんかの皆様にはこの間朝鮮人犠牲者追悼式の開催をしていただき、心からの敬意を払うものであります。

言うまでもなく、関東大震災後の流言蜚語により、突然未来を奪われた朝鮮人・中国人の犠牲者の皆様に、あらためて心から追悼の誠を捧げるとともに、本日多くのご遺族の方がお見えでございますが、ご遺族の皆様のご労苦に思いをいたし敬意を表するものです。

 このたびの追悼式は長年のほうせんかさんの取り組みに共鳴した若い方々で構成される「百年」さんも実行委員会に加わり、中心として活動されています。

 皆様ご承知の通り、残念ながら小池都知事は今年も追悼文を送らない旨の報道がありましたし、官房長官も「政府内に事実関係を把握する記録が見当たらない」と、これまでの主張を繰り返しております。

 私自身ほうせんか理事の西崎さんの著作をはじめ、いくつかの本を読ませていただき、証言朗読もしていただきましたけれども、長年にわたって西崎さんはじめ関係者の皆様が集めた証言集・当時の日記、手紙、小学生の作文などエゴドキュメントにおいても記録は明らかであり、また一部公的な書類も残っております。明白な事実であるにもかかわらず、知事や政府のように加害の事実に向きあわず、疑問視や否定する動きは、歴史への冒涜と言われても仕方ないと考えます。

 一方小池知事の判断により、朝鮮人虐殺の事実が数多く報道されたことにより、遠藤さんのように後に続く方たちが出てきたことはたのもしい限りであります。連帯の輪が今後幾重にも広がることをご祈念申し上げます。

 そして皆様にエールを送る意味で、一つのエピソードをご紹介したいと思います。関東大震災の21年後、日本はサイパン島テニアン島アメリカ軍に占領されました。この両島から、全国各地の空襲や原爆を落としたB29が飛び立っていきました。自決の島と言われた激しい戦闘の末捕虜となった日本人の中には2,000人以上の子どもたちがいたそうです。   

生きる希望を失った子どもたちを見て、アメリカの下士官たちは子どもたちに遊びや学ぶ場が必要だと、敵国にもかかわらず応急の学校を作ったそうです。いわゆるテニアンスクールというそうですけれども、授業だけでなく運動会を開催した記録もあります。やがて、日本を爆撃し帰還した兵士が子どもたちと遊ぶ姿が見られたそうです。その姿を見た米軍の下士官が次のような言葉を残しています。

「彼らの心は分裂していました。爆弾を落としている自分と子どもたちをかわいがっている自分とに引き裂かれていたのです。人と人が直接に知りあっていれば、憎しみは生まれません。お互いの人間的関係が無い時に、人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落としてしまうのです」と。

100年前も人間関係ができている地域では、悲劇は起きておりません。今もまだ世界各地で戦争・紛争・内戦が起きていますが、民族や肌の色の違いや領土の問題を乗り越えて、それぞれのアイデンティティーを尊重し多様性を認め合う共生社会の担い手となる皆様の草の根の活動に心からの敬意を表すると共に、私は私の立場で皆さんの活動をご支援することをお誓い申し上げます。

結びに、重ねて哀悼の意を表するとともに、本日お集りの皆様のご健勝をご祈念申し上げ、挨拶とさせていただきます。

 

以上