housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

99周年追悼式報告ー会報から

関東大震災99周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式を終えて

 

                    追悼の歌 李政美さん・竹田裕美子さん

 

記録的な猛暑も心配された雨もおさまり、9月3日は穏やかな日となりました。荒川河川敷での追悼式は、41回目となりました。午後3時すぎ追悼式を開会し、主催者を代表して西崎雅夫がご挨拶しました(p3)。

続いて、来年の100周年の追悼式を準備する「ほうせんか100周年追悼式実行委員会」の皆さんが前にそろい、鄭優希さん・浅野百衣さんが話しました。41年前、先輩の日本人と在日コリアンがこの場所で追悼式をはじめ、またこうして引き継がれていく場面に、会場は拍手に包まれました。虐殺事件を正面から見据えるメッセージをぜひお読みください。

 

数年ぶりに会場に金道任さんが来て下さったので、ご紹介しました。震災時、33歳だった伯父の朴徳守さんは群馬から東京に出かけ、そのまま行方不明になりました。今年85歳になる金道任さんは、お兄さんを慕っていたお母さんの悲しそうな姿が忘れられないと言います。テレビ朝日が、放映してくれました。

https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000267203.html

また地元の渡辺つむぎさんに、ご自身の革作品を紹介いただきました。昨年出版した『増補新版 風よ鳳仙花の歌をはこべ』を読んで浮かんだ情景を、木下川でなめされた豚皮に描いたとのことで、プンムルに沖縄のカチャーシ―も描かれています。

 

追悼の歌を、今年は李政美さん・竹田裕美子さんにお願いしました。「セノヤ」で始まり、2曲目の「ほうせんか」については、朝鮮総督府3・1独立運動を弾圧した翌年につくられ広まった、「朝鮮は必ず独立するんだ」という思いが込められた歌ですと、紹介しました。そして、「あなたの墓のそばに」を最後に歌ってくれました。心にしみる、追悼の歌でした。

次に、韓国の金鐘洙牧師からご挨拶をいただきました(p6)。金さんは「1923韓日在日市民連帯」代表で、関東虐殺歴史館を建設し、韓国で初めての常設展示を行っています。現在「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」の執行委員長でもあります。申嘉美さんが通訳してくれました。  

最後は、中国人犠牲者遺族からのメッセージでした(p7)。荒川下流江東区大島町で起きた中国人虐殺の犠牲者の多くは、中国・浙江省温州の出身でした。当時中国では犠牲者調査がなされ、中国政府調査団を日本に派遣もしました。温州市の遺族会準備会からのメッセージを、「関東大震災中国人受難者を追悼する会」川見一仁さんが代読してくれました。閉会と同時に始まったプンムルは、ひときわ大きく長く続きました。

 

今年も追悼式準備に運営に、駆けつけてくださった大勢の皆さん、ありがとうございました。41回の追悼式は、この方たちなしには行えませんでした。心よりお礼申し上げます。そして、各地からお花代やジュースなどで追悼式に心を寄せてくださった方々にも御礼申し上げます。追悼式の様子は、毎日新聞でも動画配信してくれています。

https://mainichi.jp/articles/20220903/k00/00m/040/213000c

 

350部用意したパンフレットも無くなり、380人を超す方々で、99周年の追悼式を開催することができました。公的な記録には残っていない犠牲者たちは、運動が終われば「無かった事」になります。どうぞ、犠牲者追悼の運動を一緒に担って下さるようお願いし、追悼式報告を終わります。 

   

主催者挨拶

 

今年は「追悼する会」が結成されてから40年になります。この間、多くの証言者、賛同人、会員がこの場に集って追悼を続けてきました。今日も多くの皆さんがおいでくださっています。まことにありがとうございます。

1982年、前代表の故・絹田幸恵は次のような文で会の結成を呼びかけました。

 

殺された朝鮮人の遺骨を、できるだけ早く発掘し、その霊をなぐさめ、真実を明らかにし、再びこのようなことの無いように、消えない記録をのこしたいと思います。そして、民族や、平和の問題を、私たち一人一人の大事な問題として、これからも考えていきたいと思います。

 埋もれていく歴史を掘り起こし、良心の光をあてていく『共同のしごと』に、どうかみなさん、お力をかして下さい。」

 

あれから40年、私たちは河川敷で毎年追悼式を行ない、証言を集め、記録として本を刊行し、私有地にですが追悼碑を建立しました。

不十分ながら、やるべきことはやってきたという自負はあります。でも成果があまりに乏しい、というのも実感です。

墨田区議会では昨年6月、自民党議員が震災時の朝鮮人虐殺を「正当化」したり「否定」する旨の発言をしました。朝鮮人虐殺事件の真相究明とは真逆の動きでした。

小池東京都知事は震災時の朝鮮人虐殺を「天災」の中に押し込め、「特別な形の追悼はしない」として横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典に出すべき「追悼文」を拒否し、公園内にある朝鮮人犠牲者追悼碑を撤去しようとする勢力を支え続けています。

2018年には東京の民族団体本部の門扉に銃弾が5発撃ち込まれました。昨年は愛知県の民族団体本部や京都宇治の朝鮮人多住地域が放火されました。ヘイトスピーチ・ヘイトデモは続いています。朝鮮幼稚園・朝鮮高校は授業料無償化から除外され続けています。

このような日本社会の現状を見ると、無力感に襲われることもあります。

来年は関東大震災から百年になります。でもいまだに虐殺事件の全体像や真相は解明されていません。いまだに肉親の遺骨を探し続けている遺族もいます。この百年間は何だったのだろうかと思います。それでも私たちは百年目に向けてまた新たな一歩を踏み出していかなければなりません。その時に核となるのは、絹田の呼びかけ文にあるように、やはり「私たち一人一人が大事な問題として考えていく」という姿勢だと思います。

来年は若者たちがここでの追悼式の内容を新たに考えリニューアルしてくれます。皆さん、来年もここに集い、ともに新たなスタートを切ってくださいませんか。お待ちしています。

2022年9月3日 

関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会

一般社団法人ほうせんか

 

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「ほうせんか100周年追悼式実行委員会」から

 

鄭優希さん

「こんにちは、鄭優希(ちょん うひ)と申します。大学4年生の時から私はかれこれ6年間くらい、向かいにあります「ほうせんかの家」の方に顔を出し続けています。

来年は100周年ということで、20から40代の仲間たちとつくりあげる、100周年追悼式の実行委員会「百年(ペンニョン)」を立ち上げることにします。

「ペンニョン」は、朝鮮語で「100年」の意味です。証言者が一人もいなくなったこの時代に、私たちはこの記憶をどのように「日常の言葉」として落とし込んでいくかが問われていると思います。

私にとって「関東大震災朝鮮人虐殺」という言葉は、そしてこの荒川河川敷は、常に日常の風景とともにありました。幼い頃、今はもう亡きハラボジが、よく「あそこで朝鮮人がたくさん殺されたんだ」と口にしていたのを覚えています。私にとってのこの河川敷ですけれども、私はすぐ近くの朝鮮学校に通っていたので、この木根川橋を毎日スクールバスで通っていて、私にとっては日常の風景だったんですね。

なので90何年も前のこと、モノクロの写真の中の話ということと、自分が前にしている日常の風景をどういう風に繋げればいいのかってことが、なかなかわからずにいました。正直今でも自分がこの記憶とどのように付き合っていくべきか、悩んでいます。だからこそ私はこのほうせんかの家に通い続けて来たのだと思っています。

私がここに来始めた20代前半の時は、少し遅めの在日3世として日本社会を生きる中で、1世や2世はもちろん、同世代の在日と経験する差別の形の違い、そしてそれぞれが差別をどう対処するかの違い、それによる互いのわかり合えなさと傷つけ合いにもがいていた頃でした。差別はたしかに続いているのに、差別の形の違いによってどうしてさらに苦しまなければいけないのか。私はこの社会の中では、在日コリアンたちが自分たちを語るための言葉が今でも奪われ続けていると思います。そしてその根底に、この植民地時代から続くヘイトクライムの本質があるのだと思っています。

それから、私は朝鮮人虐殺のことを勉強していくうちに、これはただのモノクロの写真の話ではなく、当時にも今と同じような日常がそれぞれにあったのだという風にやっと想像することができるようになりました。

植民地時代であったにせよ、日常の暮らしの中で、でも決して突然起こったわけでもなくて、その前からの差別や弾圧の積み重ねの末に、脆弱な立場に立たされた者たちの生死が決定づけられてしまうのだと気づきました。

実際に最近では京都や愛知、相模原、東京でも、ヘイトクライムの話を身近に聞くようになっています。

関東大震災朝鮮人虐殺から99年、この日本社会において差別の形はどのように変わって、あるいはどのように変わっていないでしょうか。そして百年(ペンニョン)という節目を迎える来年、私たちは何を変えることができるでしょうか。

「百年」の準備会は、去年の12月から1〜2ヶ月に1回ほどのペースでミーティングや内部勉強会を開いてきました。

これから来年の100周年追悼式に向けてイベントなども企画し、日常の中でこの記憶を語っていけるように外にも情報発信していこうと思っていますので、どうぞ応援よろしくお願いいたします。」

 

 

浅野百衣さん

「「百年」に参加している浅野と申します。私は優希さんとかつて勤めていた職場で出会い、

優希をとおしてほうせんかと出会い、関東大震災の際に日本人が行った朝鮮人虐殺の歴史を知りました。それは28歳の頃のことで、長い年月、朝鮮人虐殺の話を知らないで生きてきたということは、たくさんの人の命を奪ったその事実を無かったかのように、取るに足らない事、仕方なかったかのように扱う、戦後と言いながらも植民地支配を続ける日本の歴史の中に生きる一人の日本人であるのだという事を示しているのだと感じています。

 「百年」の活動の中で今年の5月のとても暑い日、証言の聞き書きをされてきた落合さん、慎さん、西崎さんの案内のもと、フィールドワークを行いました。かつて「そこに殺された人の身体が転がるように置かれていた」という証言とともに立ち止まる場所は、ただの道となっていました。

 取るに足らない事でないこと、無かったことにされて良いはずのない事が起きた場所です。あったことがない人の命が奪われてしまった場所、忘れられぬ恐怖をその人が植え付けられた場所、かつて軍・警察・民衆さまざまな立場の日本人が流言をふりまき、信じ、それを根拠にたくさんの人の命を奪ったように、歴史は一人一人の人間が形作るものです。

 先人が行った残虐な行為を無かった事のようにする歴史。今も続く差別、それを取るに足らないものとしてしまう歴史。移民難民を犯罪者予備軍に仕立て上げ、排除し、命を奪うものの、まともに真実に向き合わない歴史。それは今目の前にあるものです。私はそこに生きています。すべて取るに足りない事、仕方のない事ではありません。

 私は「百年」に参加して、人とともに生きることを学び、人の尊厳が守られる社会を築いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。」

 

東大震災 虐殺99周年追悼の辞 

                  

こんにちは。

韓国から来た「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」共同代表の金鐘洙です。

関東大震災によって命を失った災害被害者と政治権力による虐殺で貴重な生命を失った虐殺被害者のすべての魂に哀悼の気持ちを伝えます。

そして99年間、真実を探るために力を注ぎ、毎年その記憶を継承してきた皆様にも感謝の気持ちを伝えます。

 

私たちは日本政府が歴史的事実を否定し、真実を隠してきた99年の歴史を来年100年にまで続かせないことを願っています。

日本政府が今からでも関東大震災の真相究明を徹底的に明らかにし、国家の責任を痛感して被害者に謝罪し、心からの追悼に乗り出すことを願います。

そのような日が早く来るようにするために、韓国では数多くの宗教市民社会団体が7月12日「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」を結成しました。

そして本日、関東虐殺事件の真相究明と被害者たちの名誉回復が早く実現するよう、日本の宗教・市民と在日同胞たちと連帯し、国際的な訴えをするためにこの場に参加しました。

韓国の「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」は、韓国の宗教市民社会団体が力を合わせてその被害者を追慕し、遺族を慰めることにとどまらず、その当時の虐殺の真相をきちんと究明し、日本の国家責任を問うために南北朝鮮、海外、特に在日同胞、日本の宗教・市民が共に連帯して共同実践運動を繰り広げていこうと呼びかけています。

関東虐殺100年を控えるいま、これ以上遅らせることのできない虐殺の真相究明と被害者の名誉回復運動は、植民主義克服と東アジア平和実現という時代的課題を解決する上で意味ある努力として位置づけられるでしょう。

 

改めて、これまで関東虐殺の真相究明のためにあらゆる努力を傾けてきた日本の市民社会団体の皆様と在日同胞の皆様に韓国の「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」を代表し、心からの感謝と連帯の挨拶を申し上げ追悼の挨拶に代えます。 ありがとうございました。

2022.9.3 関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会

 

 

2022関東大震災から99年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式 ご挨拶

 

 韓国・朝鮮の友人の皆様、ご参列の皆様

 

 私たちは、本日開催されている、“関東大震災韓国・朝鮮人犠牲者追悼式”に際し、99年前、日本の関東地区で故なく虐殺された中国人労働者並びに朝鮮人の方々を偲び、想いを寄せています。ここに受難者遺族を代表して、亡くなられた先輩の皆様方に対して深い哀悼の意を表します。 

99年前、日本の関東地区でマグニチュード7.9の大地震が発生し、膨大な人的被害と経済的損失をもたらしました。日本軍国主義暴徒は、混乱に乗じて中国人の労働者・行商人並びに朝鮮人を虐殺し、世界を震撼せしめた関東大震災虐殺事件、いわゆる“東瀛惨案”を引き起こしました。当時750名以上の中国人労働者並びに6000名以上の朝鮮人が、日本軍国主義暴徒によって意図的に虐殺されました。

 絶え間なく右傾化を進める日本社会において、この歴史を振り返ることはとても重要なことです。今日の日本社会には、警鐘を鳴らし続けることが必要です。こうした反人間的で人権を踏みにじる虐殺事件は、忘れてはならず、力を込めて伝えていかなければなりません。歴史の教訓を汲み取り、同じ過ちを再び繰り返してはなりません。

 

 ここに関東大震災虐殺事件温処遺族聯合会(準)は、以下のいくつかを提案します。

  1. 中・日・韓を含むそれぞれが、東京、ソウル、温州、麗水、福建などの各地において、それぞれの形式で記念活動と宣伝を行い、この歴史を伝えましょう。歴史の教訓を深く銘記し、平和を大切にしましょう。私たちの初志は、 “歴史を鑑として、未来に向かう”ことです。
  2. 関東大震災虐殺事件に関して、中・日・韓を含む相互間において、民間交流及び学術交流を推し進めましょう。新型コロナ感染症の期間は、オンラインでの開催も可能でしょう。
  3. それぞれの国で、歴史教科書に取り上げられるよう努力しましょう。
  4. それぞれが、関係する現地の学校と連携し、学生達のために巡回報告会をしましょう。

 

 最後に、追悼活動にご参加の皆様に感謝します。各界の皆様が、心を寄せて下さることに感謝します。

                            2022年 9月3日

                     関東大震災虐殺事件温処遺族聯合会(準)