housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

事件体験者の証言① ー 愼 昌範(シン チャンボン)氏

焼失 関東大震災時に殺されかけた方は数知れず、その後証言を残してくださった方々がおられました。前のブログで証言を紹介しましたが、ブログごと消失されてしまいましたので、改めて紹介します。

 始めに愼 昌範氏の証言を紹介します。

当会が追悼式を行っている旧四ツ木橋付近で、仲間が殺される中にあって、正に九死に一生を得た方です。  その時、何があったのか、本人しか語れない言葉があります。   

 以前、愼 昌範氏の末の弟の子のヨンオク氏のお宅に伺いお話を伺うことがありました。

 ヨンオク氏は、昌範氏と直接お話が出来た最後の方かもしれません。

「子どもの頃、法事で親戚一同が集まって、風呂に入ったときに(昌範氏の)傷だらけの身体を見て、やくざだと思った。昌範氏の弟は、頭の刀傷のためカツラをかぶっていたのを、お風呂で知った。」と、語っておられました。

 

~ 1963年、朝鮮大学校編「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」から転記~

 

 私は、1923年8月20日、日本観光の目的で、15名の同僚と共に、下関に上陸しました。そして、関西方面を回り、8月30日東京につき、上野の昭和旅館に泊まりました。

 9月1日、昼食をとっている最中に、地震に遭いました。生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわな震えている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び下りました。一面、火の手が広がり、道もわからなくなり勿論食べ物を売っている店などありません。そこで、私たちは向島の吾嬬町で飯場を経営している尹在文氏を尋ねることにしました。やっとの思いで、夜遅く吾嬬町へ着きましたがそこも一面火の海でした。しかし、尹氏の家附近まではまだ火が回っていなかったので、その晩は尹氏の家に泊めてもらいました。よく似日は、火の手を逃れてあちこちと非難するのがやっとでした。兵隊の配ってくれる玄米の握り飯で、飢えをしのぎました。

 三日の夜、9時頃になって、「津波がやってくるぞー」と怒鳴りあう声があちこちから聞こえ、人々は、その辺では一番高い荒川の堤防へ避難しました。私たちが行ったのは、京成電車の鉄橋のある近くでした。堤防の上は、歩くことも困難なほど避難民でいっぱいでした。私たちは、いつのまにか鉄橋の中ほどの所まで、人並みのために押し込まれてしましました。結局、津波はやってきませんでしたが、疲れたので私たちは、その儘線路を枕にしてやすみました。

 四日の朝、二時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」などの声がきこえました。私には、どうして朝鮮人を殺すのか、さっぱり見当がつきませんでした。朝鮮人が悪いことをしたと云うけれど、地震と大火の中では、逃げまどうのがやっとで、中には焼け死んだ人もずい分いたのです。こんな時、人間は生きのびることが精一杯で、悪いことなど出来る筈がありません。間もなく、向こうから武装した一団が寝ている避難民を、一人ひとり起こし、朝鮮人であるかどうかを確かめ始めました。私たち15人の殆どが日本語を知りません。そばに来れば、朝鮮人であることがすぐわかってしまいます。武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で、日本刀をふり降し、又は鳶口で突き刺して殺しました。一緒にいた私たち二十人位のうち自警団に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆ど聞きとることができません。自警団が彼のそばまで来て何か言うと、彼は私の名をおお声で呼び「何か言ってるがさっぱり分らんから通訳してくれ」と、声を張り上げました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀がふりおろされ彼は虐殺されました。この儘座っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。

とびおりてみると、そこには、5,6人の同胞が。やはりとびおりていました。しかし、とびおりた事を自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで、私たちは泳いで川を渡ることにしました。すでに明るくなり、20~30米離れた所にいる人も、ようやく判別できるようになり、川を多くの人が泳いで渡っていくのが見えました。さて、私も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまに聞こえ、泳いでいく人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで、近くの葦の中に隠れることにしました。しかし、ちょうど満潮時で足が地につきません。葦を束ねるようにしてやっと体重をささえ、わなわなふるえていました。しばらくして気がつくとすぐ隣にいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張り上げました。声を出せば私たちの居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れていてもすぐに夜は明け、人の顔もはっきり判別できるほどになっています。やがて三人の自警団が伝馬船に乗って近づいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐ろしい形相でした。死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今迄の恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しくもえ上がりました。今はこんな貧弱な体ですが、当時は体重が22貫5百もあって力では人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持ちで一ぱいでした。私は近づいてくる伝馬船をひっくり返してしまいました。そして川の中で死に物狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一艘の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕えられて岸まで引きずられていきました。

びしょぬれになって岸にあがるやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふりおろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのためいまみればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にだきつき日本刀を奪ってふりまわしました。私の覚えているのはここまでです。

それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ竹やりで突かれて気を失ってしまったのです。左肩のこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右わきのこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれはなにで傷つけられたものか、はっきりしません。頭にはこのように傷が四ケ所もあります。これは後で聞いたのですが、荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架に乗せて運ばれたのではなく魚市場で大きな魚をひっかけて引きずっていくように二人の男がとび口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この二か所の傷は私が気絶したあと警察迄引きずっていくのにひっかけた傷です。私はこのように引きずられて寺島警察署の死体収容所に放置されたのでした。

私の弟は、頭に八の字型に傷を受け義兄は無傷で警察に収容されました。どれほど経ったかわかりませんが弟達に「水をくれ」という声が、死体置き場の方から聞こえたそうです。弟は、その声がどうも兄(私)の声のようだと思いその辺を探してみたけれど、死体は皆泥だらけで、判別がつきませんし、死体の数も大変多く魚を積むようにしてあるので、いちいち動かして探すことも出来なかったとのことです。その後、豪雨が降り、その為死体についた泥が、きれいに落ち始めました。三,四時間後弟は水をくれという声を再び聞いて、また死体置き場に行き、とうとう私を探し出し、他の死体から離れた所に運び、ムシロをかぶせて置きました。弟達も私の身体を見て、余りの傷に生き還える筈はないと、あきらめていました。しかし「水をくれ」という言葉が気になって、せめて願い通りにしてやらねばと水を飲まそうとしましたが、始めは全然飲まなかったそうです。ところが巡査は、治療対策はおろか水を飲ませることまで妨害しました。口実として、水を飲ませると死んでしまうからと云いましたが実は警察の中で飲み水を得るのは難しく、死人同様の私に水を与えるのは、勿体ないということだったらしいです。それでも弟は、4、5日間は空しい努力だと思いながらも、水を飲ませました。その後奇跡的にも、日、一日と好転してきたので、続けて必死に水を飲ませたそうです。こうして、人の言葉がやっと聞き分けられ、弟や義兄が、側に居ることがわかるようになりました。眼が見え始めたのは、一週間程経ってからです。この間、私は水しか飲めませんでした。意識がはっきりしてくると、自分の身体が全く自由にならないことがわかりました。両足はふくれあがり、何かできつく縛りつけられたようですし、左腕は全然感覚がなく、右手は少しでも動かすと、わき腹がひどく痛みました。身体は自由にならないけれど、玄米飯もなんとか食べられるようになりました。私も必死になって食べました。しかし、警察側は依然として私に、何らの手当てもしてくれませんでした。

9月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移され、私のような重傷者は残されました。弟とは別れの言葉を交わすことができませんでした。残された人は30余名でした。中でもより傷のひどいものは留置場に寝かされ、いくらか軽い者は通路に寝かされました。寺島警察署には、10月末まで居ましたが、やはり傷の手当はしてくれませんでした。10月下旬頃総督府の役人がやって来て私たちに、これから日赤病院に私たちを移すこと、そこへ行けば充分手当ても受けられること、またこの度の事は、天災と思ってあきらめるように等、くどくどと述べたてました。この時、30余名の重症患者中、日本語が判るのは私だけだったので、皆に通訳しました。私は寝た儘で言葉の内容を、隣の者に伝え、次々とこのようにして、皆に知らせました。

こうして私たちは日赤病院に車で送られました。私の入れられた病室は、16個のベットが二列に並べられ、みな私のような重傷者でした。日赤に来れば充分な手当てをしてもらえ、気分的にも楽になるだろうという私の想像は完全に、裏切られました。

看護婦は私たちを看護するのではなく、監視することが主な任務のようでした。顔の知らぬ者どうし、同じ部屋に収容され又傷を受けた場所も、違うので当然、各々の体験談が出るものです。ところがこのような話が少しでも出ようものなら、看護婦はすぐ婦長の所へ行き早速婦長がとんできて、大変な剣幕で患者どうし間の話を禁ずるのでした。隣に人がいながら何の話も出来ないのは、傷以上に苦しいことでした。手当といっても始めの二カ月は赤チンを日に、一度ぬってくれるだけでした。左肩は骨が砕かれているので少しでも手を動かすと、肩の骨が飛び出すのです。病院側は、腕を付け根のところから切り落とせば、なおりがはやいからとしつこくいいましたが、私はもし切り落とすようなことをしたら国にも帰れないし、自殺するといいはりましたのでやっと腕を切り落とすことからは、免れました。しかし手術が大変でした。麻酔薬もなく薬も良くなかったせいか手術中舌をかみ切って自殺してしまいたいような気持に何度かなりました。顔や頭まわりの傷はわりと早くなおりました。苦労したのは右脇腹の竹やりで刺された傷口です。息をするとそこから空気がもれるような状態でしたから治療が長びきました。

左の小指は荒川堤防で日本刀にスッパリと、切り落とされたせいか、傷口はわりときれいになっていましたが、日がたつにつれて痛みが増してきました。始めは痛いと、看護婦や医者に訴えても相手にしてくれません。しばらくしてから、えらい医者が見回りに来た時、痛くて、我慢できないから、何とかしてくれるようにたのみました。するとその医者はその場でホウタイを切る鋏をもって、痛む所をブスッと切り裂いてしまいました。ずいぶん乱暴で、全然人間扱いしているとはいえません。裂いた傷の中から、大きいウジ虫が何匹か出てきました。虫を取り出してからは、嘘のように痛みも止まり傷はよくなりました。日赤病院といっても私たちはこのように、非人間的な扱いをされて居ました。ですから、病室の16名の患者中生き残った者は9名だけでした。私がこんな重傷で、生きられたのは手当というよりも私自身の体力のおかげと思っています。

日赤病院からは、1年6か月ぶりに退院しました。朝鮮に帰ってみると、私の故郷(慶尚南道 居昌郡)だけでも震災時に12名も虐殺された事が判り、そのうち私の親戚だけでも3名も殺されました。

とにかく亡国の民というのはみじめなものです。私はこのことをいつも息子達に言い聞かせてきました。あれだけ惨酷な虐殺にあっても、国がないために抗議一つできませんでした。

私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れることはないでしょう。

 

ほうせんかのはな