housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

事件体験者の証言

 愼昌範氏の体験記に引き続き、紹介します。

1923年9月から 40年後の1963年 実際に恐怖の体験 まさに九死に一生を得る体験を生々しく書き残して下さいました。本人でないと語りえない言葉を紹介します。

(お三方のみ紹介。続く)

 

 金学文  愛知県守山市

 9月1日昼ごろ突然大地震に襲われました。当時わたしは、東京市水道局の玉川揚水場で働いていました。仕事は水取口にたまった砂などをとりのぞくことでした。朝鮮での生活が苦しく、職を探して日本に渡ってまだ一年しかたたず、日本語はやっと聞き分けることが出来る程度でした。毎日の仕事は苦しく、外出する機会もないので、東京について何も知りませんでした。

 うまれてはじめて大地震にあったので、たいへん驚き、どうすればよいのかわからず、ぶるぶる震えていました。そのうち地震もやや静まり、監督の成沢さんの指示に従って、倒れたり壊れたりしたものを片付けていました。

 三日、「朝鮮人はみな殺す」ということが、「朝鮮人襲撃」のうわさとともに伝わってきました。私は不可解でした。あのような大地震のさなかで、すべての人間が生きようと逃げまどうのに必死になっている時に、朝鮮人だけが、集団で襲撃するというは、どうしても考えられませんでした。地震の恐ろしさで,私自身日本語ができ、東京の地理をいくらかでもわかっていれば、いきるために避難したはずです。

 とにかく「朝鮮人を殺せ」ということをきいて、無我夢中で成沢さんのところへ走って行き、何とかたすけてくれるようお願いしました。成沢さんは揚水場に働いていた朝鮮人労働者四人を、一番奥の部屋にかくし、入口にはほかの日本人労働者を立たせて、自警団の襲撃から私たちを守ってくれました。こうして一週間ほど過ごしました。

 十日ほど過ぎて、わたしたち朝鮮人労働者四人は、死体処理に駆り出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人にとりかこまれて、江東の砂町方面にいきました。錦糸掘には、相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といってまずしい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅南道出身の同胞が多く住んでいました。

 これらの人は殆ど殺されたようでした。私たちが処理した死体には、火にあって死んだ人やとび口や刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別できます。虐殺された人は、身なりや顔つきで同胞であることが直感的にわかるばかりではなく、傷を見れば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さい子供まで、殺されていました。あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。

 それから40年、一日でも早くこんな恐ろしい日本から逃げ出すことしか考えていませんでした。

しかし、毎日の生活におわれ、国にかえる旅費すら蓄えられずにいます。

 今日、若いみなさんが、あのむごたらしい虐殺の真相を明らかにしようと、はるばるたずねてきて下さって、感謝にたえません。あのような虐殺は二度とくりかえされないよう、たたかわねばなりません。

 

 李鐘応   東京都台東区

 私は1922年(28歳)の二月に日本に渡りました。そして、呉、大阪、名古屋などの飯場山梨県早川の近くの発電所ダム工事場を歩いて1922年の4月に東京にやってきました。7月から本郷の区役所の臨時雇いになり、10月からは日比谷公園の掃除夫として働いていました。9月1日はちょうど公園の仕事が休みだったので、その日を利用して上野広小路の市電敷設工事に出て働いていました。12時2分前、突然地震が襲ってきました。電車が倒れ家も倒れ方々で火災が起こりました。私は夢中で雑司が谷の蛍雪寮(朝鮮人学生寮)に帰りました。一晩中地震が続き、弟と甥がどうなっているのかと心配して私を探しに来ました。

翌日の一時前、食堂に昼飯を食べに行こうとすると、朝鮮人を手当たりしだいに殺しているといううわさが聞こえてきました。それで私たちは一歩も外に出ることも出来ず部屋の中に閉じこもっていました。

夜になりあまり蒸し暑いので家の前にゴザをしきそこでみな寝ることにしました。真夜中になって2、30人の自警団が手に手にトビや日本刀を持って「朝鮮人やっちまえ!」といって飛びかかってきました。丁度そこには隣組青年団長である佐々木某がいて、「この人達は学生でみな真面目な人だから殺してはいけない」といって私たちをかばってくれました。こうして押し問答をしているうちに武装した兵隊がトラックでやってきて、自警団を押しのけ私たちをトラックに乗せ巣鴨の刑務所に送り込みました。私たちは全部21、2名いました。私たちは全員一列にならばされ、剣付鉄砲をもった兵隊が一人ひとり厳重にとりしらべました。銃殺するための点検のように思われ気が遠くなりました。しかしどうしたわけか翌三日又トラックに乗せられて蛍雪寮に送り返されました。何日かたって朝鮮人虐殺のニュースが次々と伝わってきました。本所の深川、亀戸で大量に虐殺され、月島等でもむごたらしく殺されました。

月島には私も働いたことのある飯場があって、そこには20人程の朝鮮人がいましたがそのうち19人は虐殺されました。あとで聞いた話ですが飯場にいた朝鮮人一人は壁にハリツケにされました。生きのびた一人は私の友人で開城の出身であります。彼は大変日本語がうまく生きのびることが出来ましたが、彼は日本人のまねをしてはちまきをし、日本人のような顔をしていたので殺されずに済んだということです。

本所公会堂の前でも10名が殺されました。

3∼4日後、日比谷公園に行きました所、市川主任が外に出れば殺されると言って私を倉庫の中に入れました。それは少し前に自警団がやってきて朝鮮人を出せと市川主任につめよったことがあったのでそうしたのです。私は倉庫の中で一週間程過ごしました。

 

曹 高煥 三重県四日市

 

 私は苦学の目的で、1923年6月、二十一の歳に来日しました。東京に知人がいましたので、彼をたよりにしましたが、行方がわからず、所持金も5銭しかなく、全く困ってしまい、上野の入谷町付近をうろついていました。そうしたら時事新報の配達人募集広告が目にとまり、そこをたずねていきました。当時、私は全く日本語ができなかったので、手ぶり、身ぶりでたのみ、やとってもらいました。店主は、大変理解のある人で9月1日から夜は大正学校の普通部に通えるようにしてもらい、種類を出してくれました。

 9月1日、私は踊る思いで朝の3時におき、配達をすませ、夜の来るのを待ちわびていました。ところが昼まえ、御承知の震災に遭いました。私は、二階から階下までころげおちてしまいました。そして、やっと気が付いてみると、私たちは電柱にしがみついていました。浅草から火の手が上がり、まもなく、江東のほうからも燃え出しました。そして私の勤めている新聞店の裏からも出火し、火の手はもうれつに拡がり始めました。

 私たちは主人の指示で、荷物を上野公園に運びました。公園に行くと石碑などは、きれいに倒れていました。公園で一夜をあかし翌朝、店に行ってみると、すべて灰になっていました。私は他の日本人二人と、浅草のほうはどうなっているのか、浅草の海水浴場まで行きました。夕方だったと思いますが、往来で服に血の付いた人と多数であいました。当時、私は、日本語をほとんど解せなかったので、人々の話の意味がよくわかりません。服に血がついたのも、家事騒ぎで負傷したとばかり思っていました。そのうち、そのうち、友人二人が血相を変えて、帰ろうといい私の手をひき、いそいで上野公園の主人のところに帰りました。後から分かったことですが、私が往来で見た服の血は。朝鮮同胞を虐殺した時の血であることを知りました。

 公園で二日の夜を過ごしました。その間、主人があちこち連絡した結果、私たちは、焼け残った日暮里分局に移ることになりました。三日、私たちは分局まで、何回も往復して荷物を運びました。三回目の荷物を運んだとき、急に店の主人が、私をよびよせ、今、日暮里で朝鮮人をさかんに捕まえており、軍隊が盛んに銃殺しているから分局から一歩も、外に出ないようにとの注意をうけました。そうこうするうちに、日暮里でも自警団が組織され、朝鮮人狩りを始めました。当時、日暮里分局には、各地からあつまった時事新報関係者が百人ばかりいました。その人達は、主人の指示で、玄関に立って自警団が、家の中に入らないように警戒してくれました。二日ほど経って、女中がそっと、外ではずいぶん騒いでいるけれど、店の人が表をかためているから心配しないように、また、ここには、私の他に二人の朝鮮人がいることを言ってくれました。十日まで分局にこもっていました。十日になって、本社の分局長から呼び出しがあったので部屋に行ってみると「ここではあぶないし、警察で保護することになっているから行ってもらいたい。あとで、安全になったら迎えに行くから、心配しないで行ってくれ」とのことでした。夕方、五時ごろ、巡査がやってきました。店の日本人の友人たちは不安がって、十五人程私たちのまわりをかためて日暮里分署まで送ってくれました。途中、何事もおこらず無事につきました。分署の中には、中国人が六十人程収容されていました。間もなく特高主任が来てしらべ、一晩は留置所でねて、翌日から、飯焚きをさせられました。当時日暮里警察署が焼けたので、警官はみな、分署に来ていて、三百人ばかりいました。私はここにひと月ほどいました。ひと月後、日暮里新聞という、ガリ版刷の新聞社からさそわれて、そこへ移り、間もなく朝鮮に帰りました。

 

2022年9月 追悼碑に添えられていた石。
お経でしょうか、記されています。(残念ながら読めません( ;∀;)