housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

会報、追悼式報告の続編です。

追悼式に初めて参加して百年(ペンニョン)平石 萌

 ペンニョンに8月参加。追悼式への参加は、今回が初てでした。その式で、私は虐殺の証言が書かれた凧をあげる係を担当しました。凧揚げが、今もなお植民地化支配と虐殺が行われているパレスチナにおいて、プロテストのひとつであるということ、そして東日本大震災の翌年以降、ガザの子どもたちが被災地の復興を願って毎年3月に凧をあげてくれていたことも、私は最近まで何ひとつ知らなかったのです。 

 追悼式の当日、凧を あげているときは、5年前に亡くなった祖母のことを思い出していました。私の祖母は戦時下、家族とともに朝鮮半島(今の北朝鮮が位置するところ)に暮らしていました。日本の敗戦後、北緯38度線を超えて日本に引き揚げてきた時、彼女は当時まだ17歳だったそうです。祖母が亡くなり、お通夜の時にその話を親戚から聞かされるまで、私は一度も祖母から戦時中の話を聞いたことがありませんでした。いや、聞いたことがなかったのではなく、自ら聞こうともしなかった、という表現が正しいのかもしれません。祖母が生きている間に自分から話を聞かなかった後悔と、どうして祖母は自ら私に話をしてくれなかったのだろう、という言葉にならない感情が、祖母のことを思い出す度に渦巻いていたのですが、今、少しずつ日本の加害の歴史や過去の記憶と向き合うようになり、もしかしたら70年の月日が流れていたとしても、祖母は孫の私には話せなかったのかもしれない、そう思うようにもなりました。どこか折り合いをつけたかのような言い訳のように聞こえるかもしれません。でも、もう祖母から戦争の証言も経験も、直接彼女の口から聞くことはできません。親戚や家族から聞
かされたわずかな記憶と数枚の写真しか手元に残っていない中で私にできることは、
祖母の記憶を私が記憶し、学び続け、継承することです。それが、現代に生きる私の
責任だと思っています。

 今まで訪れたことがなかったウトロ平和記念館や高麗博物館に行ってみたり、文化に触れたり、ペンニョンの活動に参加すること、今もなお世界各地で続く虐殺と植民地支配に怒り、声をあげること、そのどれもが私にとっての重大な責任を伴う行動なのです。
 追悼式の終わり、プンムルを眺めていた時、胸からこみ上げてくるものがありまし
た。歴史を修正し省みず、今年も8年連続で追悼文を送らなかった小池百合子東京都知
事が再選したというこの場所で、私はみんなとこれからも抗い続けたいと思います。
そして来年も、その先も追悼式に参加し続けたい。そう心の底から強く決意した式で
した。主催してくださったみなさまに、心の底から感謝申し上げたいです。