housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

会報189・2024年4月号発行しました。

関東大震災101周年の追悼式は9月7日(土)です。

暖かな毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

昨年はたくさんの人に支えられて無事100周年を迎えることができました。

さて、今年は101年目です。

 今年の追悼式は9月7日(土)午後に実施します。内容は「100年(ペンニョン)」の若者たちが今練っているところなので、詳細は次号の開放でお知らせします。

 追悼の歌を 李政美(イ・ヂョンミ)さんが歌ってくださることは決まっています。皆様のご参加をお待ちしています。

 

 この運動を始めるにあたって、故・絹田幸恵は「埋もれていく歴史を掘り起こし、良心の光をあてていく「共同の仕事」に、どうか、皆さん、お力を貸して下さい。」と呼びかけました。「共同の仕事」はまだ道半ばであり、大事なのはこれから101年目以降です。

初心を忘れることなく、一同気を引き締めて皆さんとともに歩んでいきたいと思っています。

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 5月26日(日)15時から、ほうせんかの庭掃除と種まきをやります。

小雨なら実施しますが、本降りだったら中止です。(後日、うちわで行います)

判断に迷ったときは、このブログか、フェスブックで確認してください。

 汚れてもいいような服(長ズボン)での参加をお勧めします。

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 ほうせんかの家の壁に新しい絵(虎・ほうせんか・蝶々・鳩など)がどんどん追加されてにぎやかになっています。一度見に来てください。     (西崎)

 

~~~ ほうせんか へのお便りから ~~~

   (会計から~会費やカンパの振込用紙への書き込み、お便りいただきましたので

    紹介します。尚、会計報告は、割愛します)

 

✿ 「ほうせんか」の活動を励みにし、福田村事件加害者側の地域で考えていきます。
柏市・Mさん
✿ いつも充実した誌面!しっかり読んでます。 世田谷区・Oさん
✿ 虐殺100年の今年はたくさんの追悼の集会が予定されています。より正確で明確
な真実を多くの日本人が知らなければいけないと思います。江東区Oさん
✿ いつも会報をありがとうございます。1924年の追悼会の記事が印象に残りました。
私もその場に居合わせているような、緊迫した思いになりました。100年の節目、多く
の人に記憶を共にしてもらえたらと思います。葛飾区・Sさん
✿ 100年。気持ちばかりですが。墨田区・Sさん
✿ 声なき声を大事する。力を出して正しい歴史を知ることは大事。いつもご苦労様です
。少しの力になれば。江東区・Sさん。
✿ みなさんの頑張りに学ばさせていただいています。 墨田区・Mさん
✿ 9月2日には参加したいです。今後ともどうぞよろしくお願いします。大町市・Kさん 
✿ 会報、いつもありがとうございます。今年から通勤で京成立石まで通っています。鉄
橋を渡るときに、毎日荒川河川敷をながめて思いを馳せています。9/2は必ず伺い
たいと思います。品川区・Yさん
✿ 9/2は風物(プンムル)で参加、お世話になりました。ペンニョンの人が証言朗読し、若い人に引き継がれていくことに感謝しました。証言集をコピーし、知人にも手渡しました。ほうせんかの花のように、はじけて広がるよう、一歩一歩来年に向けてがん
ばりましょう。府中市・Kさん
関東大震災100周年の犠牲者追悼式における、ペンニョンの証言朗読、とても良か
ったです。茅ヶ崎市 Oさん。
✿ たゆまぬ運動の持続に敬意を表します。この「関東大震災時に虐殺された朝鮮人
の遺骨を発掘し追悼する」運動は、永久に続けるものと思います。
僕は炭鉱労働者として旧樺太の炭鉱、福島県常磐炭鉱と戦争の中で過ごしてきた
ので、実際にこの目で強制連行・強制労働を見ているのです。「定住」を強いられ、家
族も呼び寄せて「朝鮮部落」「朝鮮長屋」に住む人も見ております。僕は少年電気工と
して炭鉱現場の彼らとかなり仲良しになった経験もあります。
   関東大震災時の朝鮮人虐殺は、日本に於ける朝鮮人のもっとも極端な犠牲と思い
ます。然るに小池知事は只一人追悼文を出さぬ知事。女性であることに複雑な思い
です。…国分寺市・畑中康雄さん(1928年、樺太・大平炭鉱出身。1971年以降『年刊 
労働者』や『炭鉱「労働」小説集』(彩流社)など、著書多数。)

 

                   以上です。ありがとうございました。

 

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     ペンニョンメンバーの紹介コーナーです

 さいとう めぐみです。

 東北生まれの私にとって,関東大震災とは教科書やテレビを通じてのみ見聞きする,自分とは隔絶した出来事としか感じられずにいました。そのため,関東大震災に関心を持つことはなく,地震発生直後に多くの朝鮮の人々が謂れなく殺されたという事実も,去年,「百年」(ペンニョン)のミニ追悼碑を作るワークショップに参加するまでまともに知らず生きてきてしまいました。

 その一方で,朝鮮で育ち,終戦とともに日本へと引き揚げてきた祖母の口から,朝鮮で過ごした日々の記憶や戦中で体験したことなどを聞いて育ちました。祖母は度々,日本人は朝鮮の人たちにとても酷いことをたくさんしたのに,引き揚げてくる時にとても良くしてもらい,そのおかげで帰ってくることができたと繰り返し語っていました。この話は,祖母が亡くなった今,私たち家族しか知りません。知っているとはいえ,私たちが知るのは祖母が記憶の中からひきだし,繰り返し語った一握りの断片だけで,祖母が暮らしていた街の名前も,祖母が見聞きし,時には加担してしまったであろう「とても酷いこと」,受け取った「とても良くしてもらっ」たことが何なのかを知る術はもうありません。

 9月2日の追悼式で証言を読ませていただいたことは,私にとって紙に書かれた文字や画面の向こう側にある歴史的な事実と個人的に受け継いだ記憶が交差する時間を過ごすようなことで,これらの証言一つひとつのかけがえのなさと,証言を語る人々の口元,それを記録してきた人たちの指の運びに想いを巡らさざるをえませんでした。

まだ学び始めたばかりですが,「百年」での活動を通して証言を多くの人に繋いでいく一助となれればと思っています。

 

 初めまして 根岸夢子と申します。

 今年4月のミーティングからペンニョンに参加しました。

 西崎さんの編んだ証言集を出版している現代書館で働いています。中井さんにお誘いいただいて、4月のミーティングに初めて参加しました。

 関東大震災後の朝鮮人虐殺について知ったきっかけは、2017年から続く小池都知事の追悼文不送付のニュースです。100年前、日本で起こった虐殺について、それまでまったく教えられてこなかったこと、知らずにぬくぬく育ってきたことに衝撃を受けました。

 100年目の追悼式での証言朗読がとても心に残っています。現在進行形でパレスチナでの虐殺が起こっている今、忘却や歴史否定にあらがうための一助になれたらと思います。

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  ほうせんかの家 ヨロカジ(いろいろ)報告           シン ミンジャ

毎土曜開放(13時から17時)理事4人による当番制に!

事件から100周年目の昨年の家は、土曜平日問わず訪問者が沢山‼ フィールドワークや学習訪問以外にもちょい訪問が❣ 韓国からの家族旅行のついでとか。留守の時にも、花やお酒の供物が…、総勢どれだけの方が訪ねて下さったのかしら⁉

 年開けて今年に入っても訪問者減らず!そこで、土曜日の開放をシンの独占でなく、理事4人による当番制にした。その分、シンは平日をイベントなどで、にぎやかにしたいと計画中。土曜日、理事たちとの語らい楽しみに来てください。

 で、ほうせんかの家の様子を日誌から報告します。

 
   

☆彡  追悼碑のお向かいのスペース、荒川の土手に登る階段の下を掃除したのは、去年の春の事。理事とペンニョンと一日仕事だった。大量のごみを捨て、花壇を作りベンチも置いて、町往く方々がチョイと一服する場になって久しい。ベンチで一休みしながらながら、ほうせんかの家を眺め「ここは何だろう」と思いを巡らせてもらいたい。    さて、その場に、昨年末から、毎日何度もタバコを吸いにくる方がいらして、すっかり顔見知りとなり気さくに立ち話しするようになった。その方をT氏と呼ぶ。
 T氏は、家の改築中で近所に仮住まいをしているそう。ある時「京成線の下の土手に埋めたんだよ」と話し出した。追悼する会の理事で、会の聞書きに参加した者たちは、京成線の下に埋めた話は初めて聞いたという。T氏が2度3度と繰り返すその事を、その日もまた聞いてみた。1982年の試掘の事も知っていて「京成線の線路の下を掘り起こすわけにもいかなかっただろう」という。T氏はこの近くの学区ではなく、1キロ半ほど離れた小学校の出身。「学校で、先輩なんかからもよく聞いた。怖いし酷い話だから子どもたちで、よく盛り上がったよ。このあたりの人は皆知っている話だ。皆知っているよ」「何にもしていない朝鮮人を殺して、線路下の土手に埋めたんだよ」「どうしてそんなことができたのだろう」「酷い話だ。誰がデマを流したんだろう」と、続く。シンが「お巡りさんがデマを言って回った話がある。」と言うと、「そうか〜~」「ここに碑が出来て良かったよ。無かったら忘れられてしまうものね。」  家に虎などの絵を描きに来た若者たちをみて「若い人たちが大勢来ていて良いねえ。ずーと続けられるね」「虎が増えていい感じだ」とここを見守ってくださっている様子が温かくも頼もしい。新居が完成したのか、

4月になって姿を見かけない。9月の追悼式に来て欲しいです。

(解説)八広駅はそれまで土手の高さにあったので改札出たら土手下だった。高架工事は2000年から17年。今とは景観がまるで違う。居酒屋たぬき屋(あと地がほうせんかの

家)主のおじさんは、「改札口が遠くなって、人の流れが変わってこの道が淋しくなっちゃったんだ。朝鮮学校生と日本人の子とのけんかも近辺でよく見たよ」と教えてくれた。 (報告・シン)

 

☆彡 

「ほうせんかの家」の冬のある土曜日・・・ 今日は寒いので誰も来ないだろうとのんびりしていたら、「お邪魔しまーす」と大きな声であいさつしながら5歳ぐらいの男の子が物おじせず入ってきたのでびっくりした。続いて3歳ぐらいの女の子も。あっけにとられていると、ベビーカーをたたみながら3人の大人が入って来て「見学に来ました」とのこと。2人は近くの荒川区からだったが、1人は京都からきたそうで、「それはそれは遠路はるばる・・・」と思わず言ってしまった。子どもたちはストーブの前で寝ころびながら韓国のお菓子を食べている。大人たちはここで起きた事件のことを真剣に話し合っている。こんな光景もいいものだ。  (西崎)

 

☆彡

 ✿ 碑への供物のなかでも、最長継続なのはヤクルト。どなたが届けて下さっているのか?いつか会いたいと思っていたら、会えました❣ 「古いのを、子どもが飲んだりしないようふたを半分開けておくの」「近所の人にもここの話をするのよ」って。 数日後、新しいヤクルトがあった❣

✿ ある土曜1時すぎ:千住から自転車で来られた方。「この道はよく来るの」とコーヒー缶を備えて下さる。「大事な碑よね」「河川敷でも集まっている方たちを見かけるわ」と、事件に興味を示す。よければ「コーヒーでも」と家に招き入れ語り合う。そこへ事件のDVDを見ようとペンニョンのメンバーが来たので誘うと「怖いでしょ」と言いながら最後までご一緒する。映像は怖くないしこの100年を捉えたわかりやすい内容だった。やがて「自分の両親は済州島から来て大阪に住んでいた」と。「日本人と結婚して、日本国籍を取って離婚したけどそのまま」「こうして、追悼して語り継いでくれるのがうれしい」出自を明らかにして語れることを噛締めているようだった。 (シン)

 

追悼のランタンつくり 進めています。

どなたも簡単につけれる、元はネパールのランタンです。

沢山作って、追悼碑の周りを飾ろうかと思っているの 

 5月4日(土)

 6月8日(土)14時からです。材料とお茶代で500円です。

 写真は4月22日までに作ったランタン。サイズも色々。

ネパールのカレンダーの画を頂きました。

手書きで虎をかきました。 後ろは 紙パックに碑をかきました。

左はネパールカレンダーの画を頂きました。右はお酒のパックに絵付けしました。