housenka1923の日記

荒川が造られた頃のことにあった事件を60年ほどのちに、地域に住む方々が教えてくれたのが始まりでした。1923年9月1日の関東大震災が起きた直後、多くの朝鮮人を殺して、その河川敷に埋めたことを。遺骨の一つでも葬ってあげなければ浮かばれないと。

会報184号 1月28日発行・p7 証言紹介

「崔さんと九月一日」 ―ある朝鮮人仏教徒の体験―

                                                      西崎

 千葉県の成田山に仏教図書館があり、多くの仏教関係の図書・雑誌が所蔵されている。私はそこで大正時代の仏教雑誌を多く閲覧させてもらった。その中の一冊『中央仏教』1924年9月号に、上記の「崔さんと九月一日」という文章が寄せられていた。書いたのは、朝鮮人僧侶の友人を持つ坂戸未來氏である。翌日朝鮮に帰国するという友人・崔さんの話を採録しているので、以下その部分を引用する(現代仮名遣いに直してある)。

 

『日本に僕はちょうど五年半いたが、この五年半のうちで忘れることの出来ない日はたった一日だ。勿論去年の震災だ。僕(この言葉だけはぼくと言えないのかぽくぽくと聞える)は自分の年齢は忘れても、この日だけは忘れることが出来ないね』

『僕は(またぽくという)君も知っている通り、年寄りの父さん母さんがいるがね、そして僕が日本へ来ることを大変止めたのだが、僕は是非日本へ来て仏学をやりたかったのだ。僕は釈迦の宗教が必ず僕の悩ましい心を救ってくれることを信じていたのだ。僕は朝鮮の僧侶に方々頼んでみたが、朝鮮の寺なんてみんな名ばかりだからね、駄目だったのさ。

 

大正八年の四月にたった一人で東京まで出て来たが、あの頃は大分景気がよかったので僕は方々で労働をしていた。東京市の下水工事の人夫になったり、玉川まで出かけて砂利採掘の手伝いをやったりしたが、ちょうど一年半ばかりあまり苛酷な労動だったのでとうとう身体を壊してしまったのだ。僕は肺病なんていう病気は家の中に閉じこんでいる人の病気だと思っていた。野天で働いている僕のような労動者が罹るんだからね。

あの時僕は玉川の調布河原の、炎天の下で、砂利の採掘をやっていたのだったがね、急に頭がぐらぐらとしたと思ったらこう咽喉のあたりが引釣ったような気がして、そこへ倒れると同時に後から後からと引っきりなしに三十分ばかり血を吐いたのだ。親方が僕の頬をぴちゃりと殴ったので気がついたが、樹蔭へでも行って憩みたいと思ったが咽喉はつれるし、足は一歩も動けないので、気が抜けたようにぐったりとしていたんだ。朝鮮人も、日本人も十五、六人程いたのだが、誰もかまってくれないばかりか、親方はずかずかと僕の傍へ寄ってきて、

『やい、グズグズするない。ヨボ!』

 と言って、また荒々しく面を殴ろうとするのだ。するとその時、堤防の上からこの光景を見ていた七、八人の人の中から『江東新聞店』と書いてある法被をきた五十格好の人が私の方へ飛び出して来たのだ。

『一体どうしたというのです。たとえヨボでもなんでも急病人をそんなに手荒にしないでもいいでしょう』

 と、親方に言いながら僕の傍にきて、汗どろになった身体を逞しい両腕に抱えて親切にも堤防の上の樹蔭まで運ぼうとしたのだ。ふと見ると、S君——その人の二の腕には仏教信者の表象ともいうべきあの小さな珠数が篏っているじゃないか。僕はそれを見付けた瞬間、たったいまの恐ろしい恪血と、惨忍な親方の仕打ちも忘れて熱い涙がわけもなくはらはらと頬を伝ってきたのだ。笑ってはいけない。僕は実際、この時僕の持っている総ての理性を失ってしまったのだ。そしてこの人の腕の中ならたとえ今死んでしまってもいいと思ったのだ。

 その日の夕方、僕は親方から離れて本所横網の『江東新聞店』に厄介になることになった。約二ヶ月ばかりその主人一家の手厚い看護を受けていたが、そこの家庭を考えるといまでも僕は感謝の涙なしではいられない。

 

親のような主人の好意で僕が埼玉県川口町在のK寺に入ったのは去年の春だった。この寺は江東新聞店一家の菩提寺でもあり、住職が稀な人格者なので僕のような貧しい朝鮮僧を心から喜んで迎えてくれた。君と知り合いになったのも、あの住職が僕をT大学へ入れてくれたことに起因するのだがね——』

『僕の身体はその後、空気のいいことや栄養のいいことやによって大体は順調だったが、時々は胸が痛むようなことがあった。K寺の住職は勿論ある既成教団に属していたが、その教団の信仰に捉われない新しい教団——自力でも他力でもない妙力門を主唱する——の信仰を持っていたので、僕もいつの間にかその教団の本尊である観音を信仰することが出来そうになっていたのだ。朝に夕に一家の者が揃って読経をしたが、僕はその住職や、本所の江東新聞店の主人やそのほかの教団の人達と一緒に路傍伝道などにも随いて行ったこともあった。

 

夏が過ぎた。僕は暑中休暇中、K寺のためにどんな仕事でも厭わなかった。そして九月一日のあの震災がきたのだ。地盤の弱い荒川筋に立てられた僕のK寺は一たまりもなく、潰れてしまった。本堂の屋根の中になった住職は別に怪我は無かったが、もう東京大火の噂が村々に伝っていた。その晩は本所深川方面の惨状が頻々として報ぜられた。僕は足をぶたれて寝ていたたった一人の師を見捨てる訳にはいかなかったが、本所には僕の命の親とも頼む江東新聞店の一家もあった。と同時にいまわしくも朝鮮人虐殺の報さえ伝った。

 しかし僕はあの焔の渦巻く都の空を眺めた時、どうして黙っていられたろう。住職の止めるのもきかずにやっと許しを請うて川口町へ出て来た時は一日の夜半だった。墜落した赤羽の鉄橋を匍いながら渡ってやっと浅草まで辿りついた時は、所々に濛々たる火の手が上って阿鼻叫喚といっていいか、地獄といっていいか、逃げ惑う人々の叫び、異様な物音。渦巻く黒煙と猛火、その中でS——何という奇蹟だろう。僕は新聞店夫妻が手の中の玉のように愛していた七つになるたった一人の女兒——たしかにそれが半死半生のようになって右往左往しているのを発見したのだ。僕は矢庭に飛びついて

『静ちゃん——ほら僕だ。崔だ。さあ早く逃げよう』

 抱き上げて、再び来た路を上野の方へかけ出した。

『父ちゃんは——母ちゃんは——』

 ときいたが死人のようになった静ちゃんはもう何とも答えそうにもなかった。僕は静ちゃんをしっかり抱いたまま、身動きもならない上野の山へやっと逃げ込んだ。一日中、そこで彼女を介抱して火の鎮まるのを待っていたが、火は鎮まらないのみか、上野の山さえ刻々と危険が迫っていた。再び僕は正気づいた彼女を抱いて、丸の内の方へ逃げたという夫妻を見つけるために本郷の切通しを上っていった。

 二日の晩だ。丁度その時、広小路の松坂屋の高楼に火がついた時だ。ふと僕の後の方でガヤガヤと喧しい叫びがあったと思った時、僕の肩先へ冷たい物が触れた。僕はつまずいてどうと倒れた。

『鮮人だ。やっちまえ』

 という声が聞えた。もうどんな弁解も無駄だった。僕は片手で血の流れ出る肩の疵をおさえ片手で静ちゃんをしっかりと抱いてよろよろと立上った。その時群衆の中

「崔さんと九月一日」 ―ある朝鮮人仏教徒の体験―

                                  西崎

 千葉県の成田山に仏教図書館があり、多くの仏教関係の図書・雑誌が所蔵されている。私はそこで大正時代の仏教雑誌を多く閲覧させてもらった。その中の一冊『中央仏教』1924年9月号に、上記の「崔さんと九月一日」という文章が寄せられていた。書いたのは、朝鮮人僧侶の友人を持つ坂戸未來氏である。翌日朝鮮に帰国するという友人・崔さんの話を採録しているので、以下その部分を引用する(現代仮名遣いに直してある)。

 

『日本に僕はちょうど五年半いたが、この五年半のうちで忘れることの出来ない日はたった一日だ。勿論去年の震災だ。僕(この言葉だけはぼくと言えないのかぽくぽくと聞える)は自分の年齢は忘れても、この日だけは忘れることが出来ないね』

『僕は(またぽくという)君も知っている通り、年寄りの父さん母さんがいるがね、そして僕が日本へ来ることを大変止めたのだが、僕は是非日本へ来て仏学をやりたかったのだ。僕は釈迦の宗教が必ず僕の悩ましい心を救ってくれることを信じていたのだ。僕は朝鮮の僧侶に方々頼んでみたが、朝鮮の寺なんてみんな名ばかりだからね、駄目だったのさ。

 

大正八年の四月にたった一人で東京まで出て来たが、あの頃は大分景気がよかったので僕は方々で労働をしていた。東京市の下水工事の人夫になったり、玉川まで出かけて砂利採掘の手伝いをやったりしたが、ちょうど一年半ばかりあまり苛酷な労動だったのでとうとう身体を壊してしまったのだ。僕は肺病なんていう病気は家の中に閉じこんでいる人の病気だと思っていた。野天で働いている僕のような労動者が罹るんだからね。

あの時僕は玉川の調布河原の、炎天の下で、砂利の採掘をやっていたのだったがね、急に頭がぐらぐらとしたと思ったらこう咽喉のあたりが引釣ったような気がして、そこへ倒れると同時に後から後からと引っきりなしに三十分ばかり血を吐いたのだ。親方が僕の頬をぴちゃりと殴ったので気がついたが、樹蔭へでも行って憩みたいと思ったが咽喉はつれるし、足は一歩も動けないので、気が抜けたようにぐったりとしていたんだ。朝鮮人も、日本人も十五、六人程いたのだが、誰もかまってくれないばかりか、親方はずかずかと僕の傍へ寄ってきて、

『やい、グズグズするない。ヨボ!』

 と言って、また荒々しく面を殴ろうとするのだ。するとその時、堤防の上からこの光景を見ていた七、八人の人の中から『江東新聞店』と書いてある法被をきた五十格好の人が私の方へ飛び出して来たのだ。

『一体どうしたというのです。たとえヨボでもなんでも急病人をそんなに手荒にしないでもいいでしょう』

 と、親方に言いながら僕の傍にきて、汗どろになった身体を逞しい両腕に抱えて親切にも堤防の上の樹蔭まで運ぼうとしたのだ。ふと見ると、S君——その人の二の腕には仏教信者の表象ともいうべきあの小さな珠数が篏っているじゃないか。僕はそれを見付けた瞬間、たったいまの恐ろしい恪血と、惨忍な親方の仕打ちも忘れて熱い涙がわけもなくはらはらと頬を伝ってきたのだ。笑ってはいけない。僕は実際、この時僕の持っている総ての理性を失ってしまったのだ。そしてこの人の腕の中ならたとえ今死んでしまってもいいと思ったのだ。

 その日の夕方、僕は親方から離れて本所横網の『江東新聞店』に厄介になることになった。約二ヶ月ばかりその主人一家の手厚い看護を受けていたが、そこの家庭を考えるといまでも僕は感謝の涙なしではいられない。

 

親のような主人の好意で僕が埼玉県川口町在のK寺に入ったのは去年の春だった。この寺は江東新聞店一家の菩提寺でもあり、住職が稀な人格者なので僕のような貧しい朝鮮僧を心から喜んで迎えてくれた。君と知り合いになったのも、あの住職が僕をT大学へ入れてくれたことに起因するのだがね——』

『僕の身体はその後、空気のいいことや栄養のいいことやによって大体は順調だったが、時々は胸が痛むようなことがあった。K寺の住職は勿論ある既成教団に属していたが、その教団の信仰に捉われない新しい教団——自力でも他力でもない妙力門を主唱する——の信仰を持っていたので、僕もいつの間にかその教団の本尊である観音を信仰することが出来そうになっていたのだ。朝に夕に一家の者が揃って読経をしたが、僕はその住職や、本所の江東新聞店の主人やそのほかの教団の人達と一緒に路傍伝道などにも随いて行ったこともあった。

 

夏が過ぎた。僕は暑中休暇中、K寺のためにどんな仕事でも厭わなかった。そして九月一日のあの震災がきたのだ。地盤の弱い荒川筋に立てられた僕のK寺は一たまりもなく、潰れてしまった。本堂の屋根の中になった住職は別に怪我は無かったが、もう東京大火の噂が村々に伝っていた。その晩は本所深川方面の惨状が頻々として報ぜられた。僕は足をぶたれて寝ていたたった一人の師を見捨てる訳にはいかなかったが、本所には僕の命の親とも頼む江東新聞店の一家もあった。と同時にいまわしくも朝鮮人虐殺の報さえ伝った。

 しかし僕はあの焔の渦巻く都の空を眺めた時、どうして黙っていられたろう。住職の止めるのもきかずにやっと許しを請うて川口町へ出て来た時は一日の夜半だった。墜落した赤羽の鉄橋を匍いながら渡ってやっと浅草まで辿りついた時は、所々に濛々たる火の手が上って阿鼻叫喚といっていいか、地獄といっていいか、逃げ惑う人々の叫び、異様な物音。渦巻く黒煙と猛火、その中でS——何という奇蹟だろう。僕は新聞店夫妻が手の中の玉のように愛していた七つになるたった一人の女兒——たしかにそれが半死半生のようになって右往左往しているのを発見したのだ。僕は矢庭に飛びついて

『静ちゃん——ほら僕だ。崔だ。さあ早く逃げよう』

 抱き上げて、再び来た路を上野の方へかけ出した。

『父ちゃんは——母ちゃんは——』

 ときいたが死人のようになった静ちゃんはもう何とも答えそうにもなかった。僕は静ちゃんをしっかり抱いたまま、身動きもならない上野の山へやっと逃げ込んだ。一日中、そこで彼女を介抱して火の鎮まるのを待っていたが、火は鎮まらないのみか、上野の山さえ刻々と危険が迫っていた。再び僕は正気づいた彼女を抱いて、丸の内の方へ逃げたという夫妻を見つけるために本郷の切通しを上っていった。

 二日の晩だ。丁度その時、広小路の松坂屋の高楼に火がついた時だ。ふと僕の後の方でガヤガヤと喧しい叫びがあったと思った時、僕の肩先へ冷たい物が触れた。僕はつまずいてどうと倒れた。

『鮮人だ。やっちまえ』

 という声が聞えた。もうどんな弁解も無駄だった。僕は片手で血の流れ出る肩の疵をおさえ片手で静ちゃんをしっかりと抱いてよろよろと立上った。その時群衆の中から現れた二人の人があった。これから先は言わないでも分るだろう。君は僕のことをT—大学の学友であると弁解し静ちゃんの父は僕のことを自分の大切な子供だと説明して、無智な惨虐手から僕を救ってくれたのだ。僕は日本人の無智を嗤うことは出来るが、信仰というものだけは嗤いきることが出来ない』

 

 この話をした翌日、崔さんは帰国したそうだ。

 こうした「生きのびた朝鮮人」の体験談を私はもっと知りたいと思っている。殺されて体験を語り残すことすらできなかった多くの犠牲者の無念に少しでも近づくことができるかもしれないからだ。

から現れた二人の人があった。これから先は言わないでも分るだろう。君は僕のことをT—大学の学友であると弁解し静ちゃんの父は僕のことを自分の大切な子供だと説明して、無智な惨虐手から僕を救ってくれたのだ。僕は日本人の無智を嗤うことは出来るが、信仰というものだけは嗤いきることが出来ない』

 

 この話をした翌日、崔さんは帰国したそうだ。

 こうした「生きのびた朝鮮人」の体験談を私はもっと知りたいと思っている。殺されて体験を語り残すことすらできなかった多くの犠牲者の無念に少しでも近づくことができるかもしれないからだ。